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「ほっといてよ! おじさん」 |
空気がやけに重い。 空気の8割が窒素というのはウソじゃないか? 「じゃあどんな気体なんだ?」といわれてもわからない。 重い気体って知らないもの。 …。 あ、「六フッ化タングステン」だって。重い気体。分子量260。 こんなどうでもいいことをネットで調べてしまう程集中力が欠けている。 なんなんだこのイライラは。 いつになったら終わるんだこの作業は。 あたしがイライラして羽織ってたカーデガンを脱ぐとおじさんがいた。 「たいへん!」 急いであたしはいつものエプロンをつけた。 おじさんはおかまいなしにいつもの液体をあたしにひっかけた。 間一髪エプロンが被害を最小限に防いでくれた。 「ああ、危な〜」 でも髪や顔にも少しかかった。 この液体は肌に付くとすごくかゆくなる。 あたしはますますイライラしながら(でもなんで自分がイライラしていたのかわかって納得した)机の上の原稿用紙に向きなおった。 小さなカッターナイフで「スクリーントーン」っていうシールみたいなものを原稿用紙に貼っていく。 明日の夕方には神保町にある出版社に原稿を持っていかなくてはならないのだ。 おじさんが来たからってかまってられない。 おじさんはグリーンのエコバックからケチャップの容器みたいなビニール製の入れ物に入った液体を取り出してまたあたしにひっかけた。 あたしは原稿用紙が汚れないようにエプロンでガードしながらトーンを貼っていった。慣れたもんである。 「おじさんにこんなこといってもしょうがないんだけどさぁ、これ明日〆切なんだよ。ちょっとほっといてくんないかなぁ」 おじさんはグリーンのチューリップハットの下でちょっとだけ眉を上げておどけたような顔をした。 「毎月来るのわかってるんだからそれまでに仕事終わらせておけばいいのにってこと?」 今度はノーリアクションのおじさん。 おじさんはしゃべらない。 でもおじさんが何か言おうとしている時はあたしにはわかった。 今は何も考えていないみたい。
おじさんが初めて来たときはちょっと嫌だった。 あたしは小学5年生。 グリーンのチューリップハットに帽子より暗いグリーンのロングコート、黒い靴の今より若いおじさんがグリーンのエコバックを持ってやってきた。 おじさんは細身で長身、黒い髪は天然パーマだ。(しゃべらないのになぜ天然だとわかるかって?それはなんとなく) 女の子にとって必要なおじさんだからって11歳の子供にこのルックスのおじさんはキツイ。 最初は怖かった。 お母さんがおじさんとうまくやっていく方法を教えてくれた。喫茶店で。 となりに大学生くらいの男の人が座っていた。 あたしはこの人に聞かれてもいいのかなぁとぼんやり思った。 だって学校では男子に校庭でサッカーなんかさせて女子だけ毎月来るおじさんの説明を受けたんだもん。 先生の説明によるとおじさんに何をされるかは人によって違うらしい。 毎月おじさんにお腹を殴られる女の子もいるらしい。 一週間毎日スクワット300回やらされる女の子もいるらしい。 先生なんかは鼻にフックをかけて後ろに下げた籠におじさんが水入りのペットボトルを入れていくというスタイル。 サッカーから帰ってきた男子が何の話してたのかって聞くから教えてやろうかと思って友ちゃんを見た。 友ちゃんはあたしより10キロも重い。背も高い。 4年生のときからおじさんと一緒にいる。 友ちゃんのおじさんは友ちゃんにパック詰めの赤飯をわたしていた。 友ちゃん睨んでるからやめた。 でもわかんじゃん。 おじさんいるんだから。
2回目にかけられた液体が首と足に付いてかゆい。 「あたし昨日も寝てないんだよ。 あたしがこれまでどれだけがんばってマンガを描いてきたと思うの? 四コマも描いた、イラストも描いた、雑誌の看板マンガのパロディだって描いたし、正式なスタッフでもないのにロハでその看板マンガの原稿を修正したりもしたのよ。そしてやっと自分のマンガを連載できるようになったんじゃない。だから邪魔ぶえっ」 おじさんがまたかゆくなる液体をかけた。 あたしは原稿にかからないように顔で受け止めた。 かゆい。 イライラする。 そしてダルい。六フッ化タングステン。
翌日、なんとか原稿を完成させて出版社に持っていった。 担当編集者が原稿をぺらぺら見てちょっと不満そうにお疲れと言った。 あたしはイライラして「なにか問題ありますか?」と聞いた。 「問題、ねぇ。相変わらず絵柄が地味だよね。タイトルと設定も地味だしさ。 ま、会議通ったからこうしたんだけどさ。オレはもっとハデなのやりたいな。 ミキモト君と同期のシノハラくんさ、彼パソコンで原稿仕上げてんだよね。君も勉強したら?」
あたしは泣いていた。 泣きながら神保町のしょうもない歩道を歩いていた。 おじさんがあたしの顔に液体をかけた。 あたしの顔がべしょべしょなのは涙のせいなのかおじさんのせいなのかわからない。 車道を挟んで向かいの歩道にカウボーイハットをかぶったおじさんに頭突きされる高そうなスーツをきたきれいな女の人がいた。 その人が高いピンヒールでよろけながらこっちを見たから目があった。 ちょっと笑っている。 あたしはおじさんが来てうれしかったときのことを思い出した。 はじめて彼氏とセックスした後おじさんが来なくなったらどうしようと思ってハラハラした。 次に彼とセックスしようとしたら急におじさんが来た。 あたしは「こういうことなんで」とおじさんを指さした。 彼はちょっと笑って一緒の布団でなんもしないで寝た。
「あたしパソコンでマンガのソフト勉強するわぶっつ」 いい終わらないうちにおじさんが液体をひっかけたから口に入ってイライラした。
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